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6月5日

「歯止め」

どこにするのか。どこらでやめとくのか?それが問題なのです。一番の。

それ以上の、そしてそれ以外の「問題」というのは、実は「問題」ではなく、「スタイル」だったりすると思うのです。

答えのでない問いは「問題」ではないのではないかと。それは「それを問うておるのだ」あるいは「それを問わざるを得ないのだ」というスタイルでないかと思うわけです。

我々がどうにかできるとしたら、そしてそれをこそ「問題」と呼ぶのであれば、それは「どこらでやめとくか」「どこまでで、深入りするのをやめて踏んばるか」ってことなんじゃないだろうかと思うのです。


画家はキャンパスに絵の具を書き付ける事で。
詩人は、言葉にする事で。
写真家はカメラのシャッターを切る事で。

踏ん切りを付けているのだと思うのです。
見切りを付けているのだと思うのです。
「これ以上はふみこまないでおこう」と、そこで踏んばったってことだとおもうのです。

考えない事も簡単ですし、考える事も簡単です。しかし、考えはじめた事を途中で区切りを付ける事は、とてもとてもとても難しい事だと思うのです。

私が演劇をやるときにはどこで区切りを付けるべきなのかが未だに定かに見えません。

純粋な問いはどこまでも沈んでゆき(昇ってゆき)きっと私からも世界からも宇宙からも遠ざかって、四次元か五次元のところでまじってしまうわけですから、どっかで止まっとかないと、三次元的には廃人になってしまいます。

「三次元的には廃人になる」とかいう安いロマンチシズムで、今私は世界と。いやいや、京都市上京区と繋がっているので、大丈夫なんですが。

マレビトの会をやっていると、いろんな所が活性化されて(逆に死んでいく組織もたくさんあるのですが)、楽しい反面とてもしんどいのです。

話が大きくなりましたが、この「区切り」「歯止め」を、まず自分がどこだと設定して、その「設定」を(多数の)お客さんと共有できたりすると、すごく都合の良いことだとおもうわけです。

つまり「私は生きている」というレベルを、そのお芝居ではどこのラインにするのか?

共有するためには、勿論技術がいるわけです。つまりはお客さんの沈降(上昇)する思考をすら、「歯止め」しなくてはならないわけですから。

「たとえば「台本」は作家によって書かれたテキストである」

ということを「生きている」レベルにするのか。

「そこに劇世界が有る」

と言う事をいきているレベルにするのか。

「(たとえば)そこが、どこかの喫茶店である」

と言う事をいきているレベルにするのか。

「役者さんが目の前に居はる」

ということを生きているレベルにするのか。


究極的にはそこを操作してやる事が演劇にはできうるのではないかと思っているわけで、それは呪術だろうとおもうわけです。

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by syoujikimono2000 | 2005-06-05 00:54